彼らが存在し、示したモノの価値をわかっている方はどれほどいるのか・・・
そんなお話です。
歴史に残っている文章の真偽はともかく、彼らかは発せられた現代に残るお話は、勉強してその価値を知る事でもありませんし、実践しているからその価値を知っているわけでもありません。
その価値をわかる時、
仏とは何か
神とは何か
知っている事になりますが、頭ばかりで考えて実際の「それ」で生きている方はどれほどいるのでしょうか。
その段階に居ないまま、語り、実践して・・・
おそらくそうされている方々は、尊敬し、大切に思っていられると思いますが、
実際している事といえば話をろくに聞かないで自分勝手な事をしている子供と一緒なのです。
わたしには彼らがそう言っている姿がありありと見えるのですが、宗教家や信仰している方々からすると、戯言にしか聞こえないでしょう。(許可済み)
そんな方々の前にお釈迦さまやイエスキリストがあらわれても、気付くどころか否定するでしょう。
これは多くの方にとってごく普通の反応なのです。
そういった方々には奇跡を見せる必要があります。
いくつも奇跡を見せてやっと信じる・・・
当時と何も変わってません。
挙句の果てに、奇術師を彼らと間違える方もいるでしょう。
この世界でいう奇跡とはこの世界の奇跡でしかありません。
それを見せてついてくる人間は現代においてどんな方々なのでしょう。
今、彼らが望む存在とはどんな存在でしょうか。
人生という限りある機会を、無限に活かすことができます。
有限から無限をつくるという事です。
それができるのは神といってもいいかもしれません。
なぜそれができるかといえば、有限から無限をつくっているわけではないからです。(笑)
有限から無限をつくることなどできません。
有限のように見えて無限、無限を在るようにするところから智慧をくみ上げてくるのです。
それを有限である人生
期間限定の有限期間で表現してみることはとても面白い遊びであるし・・・
これ以上書いても、つまらない解釈が入りそうですね。
人間の思考とはそういうものです。
思考の上の次元から伝えられた彼らの教えは人間の次元で解釈するモノではありません。
神の国に入った者はすべて与えられるのです。
その様に言われたのに、人間の次元でものを考え続け、知った気になっているなら、それを言った本人も温かい目で見守るしかありません。
永遠の命が欲しければそれを心配しないでください。
死んだら忘れます。
そんなことに気を取られる必要はありません。
今に全身全霊を注げばすべてわかります。
人間はそれができないために数々の彼らのお話がありました。
イエスキリストが言う祝福とは何でしょうか。
それは神様から何か届くという事ではありません。
心が解き放たれるとき、大小さまざまな祝福が起こります。
それは自然に届きますから、神様にお願いする事ではありません。
あなたの在り方の変化が祝福としてあなたにやってきます。
「主よ、わたしは誓って
自分の財産の半分を貧民に施します。
また、もしだれかから不正な取立てをしていましたら、
それを四倍にして返します」。
(口語訳聖書 ルカ 19:8)人間は行為に価値が有ると考えます。
そうではないのです。
その時起こる祝福がここに描かれています。
それを感じ取れる感性が無いのならここに描かれる祝福を感じることはできません。
人間の都合で解釈するから、財産はたいて寄付しなさいという下品な教えをまことしやかに騙るのです。

さて、わたしは何も知りません。
知らないからこそ、お釈迦さまやイエスキリストが何を伝えたかったかわかります。
それはなぜでしょうか。
神の国の住人の言葉は神の国の住人であれば、わからざるを得ないくらいわかります。
あなたを神の国にご案内できるのですが、それを可能にするのは経典でも宗教でもありません。
あなた自身があなたを導くのです。
それが彼らが伝えたかったことの本質を知る唯一無二の方法なのです。
見守られている事は確かですから、そこまで行って会ってはいかがでしょうか。