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Author:差取り塾 カテゴリ
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どのような境地、段階に居るかはあまり意味がありません。
それよりも大切な事は、どれだけそこで活きているか。 輝きを放ちながら生きているかです。 そこさえ整っているなら、その今を活かしている事になります。 悟るとか悟らないという事はどうでもよいのです。 悟りとか、段階は、進んでいるなら必ず通る、通過点でしかありません。 目指す必要はありませんし、目指すことで様々なパラドックスに陥ることになります。 最も大切な事は進み続ける事。 しかし、人間は目標がないとモチベーションを保つことが困難なようです。 意識が幼ければ幼いほどそれは顕著に表れるようです。 どんなに大切な事を伝えても、自分本位に考えてしまう傾向にあります。 それについては長い時間かけて徐々に無意識から変化させていく事が最も確実で効果的であるようです。 どうであろうと続ける。 これができる方なら、すでに何かをなしているかもしれません。 続けるという事は自分の意思を超える事に繋がっている事が多いようです。 もちろん、そうでない事も少なからずあります。 それは思考停止から来る継続です。 沢山の方と向き合ってきましたが、続ける事に優る才能はありません。 続ける・・・ ただ続ける という事は、価値を知らないうちはとても難しいものです。 それでも最後に続けた方がはるか先まで進んでいます。 こんな話はとてもつまらない話と感じる方はとても多いように思いますが、様々なケースからこれに尽きるように思うのです。 自覚は知れば知るほどその価値に気付くようになります。 知らないうちは平凡で退屈に見えても何の不思議もありません。 実際、自覚の価値を知らないまま自覚をやめてしまう方は少なくありません。 さて、わたしからみて、輝きを放っている時はどんなときかという事をお伝えします。 すでに書きましたが、自分の意思・エゴを超えて物事に向き合っている時、 簡単に言うと、個性という枠の中に収まらない在り方でいる時と言えます。 様々な輝きを感じる場面を思い出してみてください。 上の定義にあっている事がほとんどではないでしょうか。 出力100パーセント未満では輝きを放たないのではないでしょうか。 世の中には思考で生み出された、情報に溢れています。 小手先で考えられた思考に輝きは起こりません。 そればかりか、それに触れる者を思考で曇らせていきます。 それは極端な表現をすると、地獄の亡者が他者を引きづりこんでいるようにも見えます。 ![]() わかりやすい方法を掴ませて、思考停止させている。 思考に収まる言葉で思考停止を起こさせる。 ここに悪意は、あろうが、なかろうがそういった事があちこちで起こっています。 この世の中に地獄の行いがあり、その象徴が地獄という想像の場所なのです。 ひどい例えをするなら、ゾンビに悪意はあるでしょうか。 ゾンビはただ、そうしたからそうしているだけであって、ゾンビに引きづりこもうなどとは考えていないのではないでしょうか。 そこから自由にならない限り、思考のミスリードから離れることはできません。 と言っても、方法を考えてしまうのが人間だと思います。 ですから、直にお伝えする事が最も効率的なのです。 しかし、知りたくて、自分の趣向を横に置けない方にはなかなか難しいのも現実です。 それでも一人ひとり違うアプローチをしながら思考停止している部分をほぐしていく事をただ続けていくだけです。 お知らせ なかなかない遠征です。 この機会にお話ししましょう。 既にある程度の人数に達していますので若干名受け付けています。 3月27日 差取り塾 お食事会 @下関 3月29日 差取り塾 お食事会 @熊本
この世に生きる方は基本的にこの世の定規・常識で生きています。
それを超えるような話に興味は向きません。 この世の興味は、自分が信じている真実に触れる話や、自分の趣向に合った話、つまり自分に都合がよい話でもあります。 そんなことはないと考える方もいるかもしれませんが、世界が平和になってほしい・すべての方が幸せになってほしいというのも自分の都合です。 この都合から自由にならない限り、世界平和もすべての方の幸せもありません。 この世の観点で起こる、戦争をしたい事と平和でありたいという思考はどちらもこの世のという枠の中で起こっているからです。 多くの方に伝わる話は、あくまでもこの世の枠に中にある琴線に触れる話でなくてはなりません。 このブログまで来てくださる方には突っ込んだ内容を読んでいただきたいと考えています。 最終的に多くの方に伝わる事よりも、伝わる方に伝わり、人間社会を人間を超えた観点から俯瞰できる人が増えていく事が大切だと考えています。 その方に伝わるためにはいったん多くの方に伝わって、その方に届くことが今のところ手段としての最善と考えています。 この世では、人間社会を人間の観点で俯瞰し(ているつもりで)語る方がほとんど。 その視座は、塾生から見るならはっきりと見えます。 だからと言って、特別感を持つことなく皆さん自分自身と向き合っています。 そもそも自覚とは、自分自身に向き合い、在り方を整えることなく整っていて、いつの間にか意識の観点が達観しているものです。 高みに至るなら、その時様々な執着やエゴは消えています。 自分に向き合いいつでも真摯に物事に向き合う事で、今まで見えなかった真実が見るようになります。 人間の世界のマスターは、脈々と伝えられている事を守り、それを伝えます。 マニュアルに沿って事を進めているわけですが、そこに違和感を感じる方は人間界にはあまりいないようです。 自分自身に向き合ったら、そこに全てあるのに、なぜ、経典を勉強しなければいけないのでしょうか。 また、なぜ、わざわざ難しい言葉を並べて哲学しなければいけないのでしょうか。 わざわざ考え出す必要なく、そこに在るのに・・・です。 本当は、誰にでもわかる事を難しい言葉でわからなくする意味があるでしょうか。 無いとは言いません。 エゴにとっては必要な事だからです。 わたしから伝えたいことは基本ありません。 なぜなら、一人ひとりの内側にあるそれを知れば、それですべてわかるからです。 上の一行はあえて伝えていきたいと考えるモノです。 だからこそ、それを知るためのお手伝いをしています。 すべての思考から自由になっていく。 すると人間は人に変わります。 それをしないまま思考しても、結局、人間という枠の中での思考しかできないのです。 この事は何度も書いていますが、 人間の枠の中で読んでいる方には結局伝わらないまま、思考の渦の中に飲み込まれていくようです。 それでもいつか飲み込まれたそれが光る時が来ます。 それも本人の自由である必要があります。 憂うことなく、待ち続ける、発し続ける。 ただそれを今はやっています。 人になるなら、この世の観点で語られているものが子供じみて感じるようになります。 そのうえで自分から表現していく方が増えるなら世の中の標準を変化させます。 すべての方が自由であること。 これは、ある観点から見るならすでにそうなっています。 そうではないと考えている方にとって、それも真実です。 どう考えようが、考えは考えでしかありません。 しかし、それに縛られて生きているか、そこから自由に生きているかでその方の視座がわかります。 大切な事をたくさん書いたつもりです。 これをただの考えとして読むのか、意識を変化させる呼び水にするかは読む方次第なのです。 世の中からすべての争いが消える最も早い方法をみつけるなら、 争わない人で構成される社会なら、争いは起きません。 一人ひとりの中から争いが消える事が最も大切だという事です。 当たり前で、理想論のように聞こえる方もいるかもしれませんが、この事は必須条件であり、実際に可能でもあるのです。 特定の思想に一切偏らない自由は気持ちの良いものです。 お知らせ なかなかない遠征です。 この機会にお話ししましょう。 既にある程度の人数に達していますので若干名受け付けています。 3月27日 差取り塾 お食事会 @下関 3月29日 差取り塾 お食事会 @熊本
人類が最も必要とする事とは何でしょうか。
自覚とは、誰かが考え出したメソッドのようなものではありません。 人間として学ぶことでもありません。 ですから、人間の常識で理解できるものではないのです。 「自覚」は神に近づけば近づくほど明白になっていきます。 なぜなら、高次元の神ほど「自覚」しかなくなっていくからです。 人間はなぜ人間なのかというと、「自覚」から離れているからです。 無自覚な行動・生き方・・・ 何に無自覚かは多岐にわたります。 それを知っても知識にしかなりませんから、ここにわざわざ書くことではないのです。 わたしは神様がいるともいないとも言いません。 しかし、意識の次元が高まって在る在り方というものは知っています(見ています)。 それを人間は神と呼んでいるようですのでそれに合わせて書いています。 それを踏まえて読んでいただけると伝わりやすくなるように思います。 自覚を理解するためには、神の在り方に近づくしかありません。 人間の在り方で頭で理解したとしても、それは妄想でしかないのです。 人間の世の中で人間が行うこと・学ぶことは人間としての在り方からなされるものです。 たまに、人間の在り方を超えた、もしくは超えそうなところで生きている方がいます。 そういった方は知識が全くなかったとしても違和感を覚えるようになります。 在り方というのはそういうものです。 人間から人・人から神へと変わるという事は、人間が考えるそれではありません。 在り方が変わっていくという事は、意識が及ぶ範囲・次元が増えていくという表現が近いように思います。 多くの方に感じる事は、 人間として人間の学びをする 人間として神の境地を学ぼうとする 人間として人間の限界を突き詰めようとする など、人間としての在り方を「しっかり」保ちながらそれをなそうとする事がわたしから見るととても不合理に見えるのです。 神として神の境地を学ぶ必要がありますか? 神の在り方で神を学ぶことができるのは、この肉体をまとっている時だけです。 これは思い出すことではなく、知っている事を知るという作業です。 思い出す必要などありません。 知っている事を知る(重要なのでもう一度) これを人間がやると、知っている知識を引っ張り出す になってしまうのです。 その境地にいないという事がそのような必然をつくるのです。 自覚はただ、その境地に向かって歩く、歩き続ける事でもあります。 その境地になる努力ではありません。←これもとても大切 なろうとした瞬間、人間の在り方が発動するからです。 自覚の仕組みはとても合理的でパラドックスを起こしません。 自覚の仕組みとは言っていますが、マスターでもない限り知識は必要ありません。 子供が大人になるにつれ体が大きくなる事を知っていればそれと同じようのものだからです。 意識が子供から大人になるという事は意識が拡大していく事といって間違えとは言い切れない理解です。 仏教の勉強をすることで、お釈迦様と同じ境地に立とうとする努力はしない、もしくはなれない。 人間の在り方のまま理解しようとするなら一生かかっても理解できないという事が伝わったでしょうか。 宇宙人の事を人間の観点・在り方から理解したつもりになっても、それは人間の理解であって、宇宙人の理解からは程遠いモノだという事が伝わるでしょうか。 多くの人間はそれを理解したかのように妄想の中に自分で閉じ込めています。 とても滑稽な事をしているという自覚が生まれるなら、何かしらの変化のきっかけになります。 今日一番お伝えしたいことは 人間の在り方のまま努力する不合理を知る そのためには神と同じ在り方になる・近づくことが合理的 それには「自覚」することが最も合理的 人間の手の届く範囲でできる事はまず「自覚」です。 そうしているうちに神に近づいているという事が起こります。 それをしながら自分があらわしたいことをあらわしてみる。 すると、人間の在り方ではわからなかった、できなかった、不可能な事ができるようになっています。 自覚は意識が幼い方には向いていません。 しかし、やり続けるなら少しずつ近づいていく事も確かです。 1mmでも進みたい方、その努力をしようとする方は、すでにそれなりの素質がある可能性が高いです。 一生に一度、自覚に触れるだけ触れてみる事は悪くないどころか、人間が・人が生きるという機会が最大限に活かされることになるのです。 お知らせ なかなかない遠征です。 この機会にお話ししましょう。 3月27日 差取り塾 お食事会 @下関 3月29日 差取り塾 お食事会 @熊本
わたしの持論ですので、適当に物語くらいのつもりで読んでみてください。
既存の学問での脳の取り扱いはあるかと思いますが、その話を聞いていると違和感が起こります。 様々な事に対して、脳内物質を出して、それはまるで飴と鞭のように思います。 そして、脳、身体という檻から意識が出ないようにしていて、そこに閉じ込めるのが脳の役割とも言えるように思うのです。 とても簡単に書いていますが、そのような観点から脳科学を見るならまた違って見えるのではないでしょうか。 ある観点に達すると、体という規定が外れます。 脳も体の一部でありその役目は脳科学で言われているそれとは全く違って見えてくるものです。 これ以上書いても仕方ない事なので書きませんが、意識が拡大していくと自然にわかる事です。 脳科学すべてを否定するものではありませんし、その優位性もあるように思いますが、脳という身体の器官を過大評価してはいけないように思うのです。 ![]() |
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